生活記録ノート

毎日のこと、旅行記、趣味などいろいろ綴っていきます。現在0歳児子育て中。

昔の旅~鹿児島・熊本~2016 1/30~2/3 ⑬

2月2日 ②

水俣までは、2時間30分くらいかかった。なんと、出水からたった3駅の場所にあった。出水っていうのは、熊本寄りだったのか。

水俣駅は、新しい駅だった。といっても、小さな駅で、コンビニもなく、軽い喫茶店が隣接していた。

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そこで、水俣病資料館へ電話をする。事前に調べたとき、水俣病資料館は現在改装中で、語り部のみを行っており、それについては電話が必要であると読んでいたからだ。
その語り部が昼は13時半からということも調査済であり、直前に電話をする私もかなりの非常識だが、なぜか、必ず13時半から聞けると思い込んでいた。
すると、本当に運よく、「13時半から小学生に向けた語りべがありますので、相席しますか?」とのこと。
実際は団体の予約しか受け付けていないというのに、ありがたや。
12時ころ水俣駅に着き、水俣病資料館までのバスは12時半に出発なので、駅前にタイミングよく表れた手作りのパン屋で昼食をとった。
チーズ入りのパンと、ヨーグルッペという乳酸菌飲料を流し込み、バスに乗った。乗客は私しかいなかった。資料館には数十分で着いた。

降りると、水俣湾の水銀汚泥を埋め立ててできたエコパーク水俣なるものがまずある。

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13時半から語り部だが、13時少し前に到着したので、水俣病研究センターを見学。
難しい言葉ばかりでムムム…となる。しかし、背丈が同じくらいの小学生がぞろぞろとやってきて、
やがてまみれ、結局そこを出た。子供たちはみなあいさつをしてくれて、明るい子たちだった。

水俣病は、経済発展にともなって起きてしまった不幸な病だと思う。
会社が汚染された工場排水をそのまま海に流し、それが魚を汚染し、ついにはその魚を食べた人がかかってしまった病。
語り部は予想通り13時半から始まる。しかし、最初の30分は映像で、少しうとうとしてしまった。
そのあとの語り部の30分間は、しっかりと起きて聞く。(逆に、隣にいた女性の教師がうとうとしていた)

語ってくださったのは、吉永理巳子さん。65歳の方で、とても上品な方だった。
なんでも、チッソの社員である父親と、祖父を水俣病で亡くしている方だった。
声が終始震えていて、慣れているはずなのに、どうしてだろう、と思ったのを覚えている。
話自体は、30分しかないのに、本題にいくまでに25分くらいかかったような印象かなぁ。

今はこうして大勢の前で語っている彼女も、当時は父親と祖父を水俣病で亡くした、ということを周囲の人にいえなかった。
言ったら差別される、という思いがあったのだ。しかし、『水俣の啓示』という本を読み、はじめて、自分自身が差別していたんだ、と気づいたとのこと。
そう気づくのに、40年もかかった。40年。その40年、彼女がどんな思いで暮らしてきたのだろうか。

そもそも私が水俣病を知ったのは、小さいときにお母さんと何か聞きに行った(あるいは見に行った)記憶があったこと、
大学の講義で、情報を伝達するジャーナリズム論で水俣病の報道について勉強したことが契機だった。 
世の中には、本当に不合理なことがあふれているなぁ、と思うが、
こういう一部にしか起こっていないと思われることを、普通の人がもっと関心をもって知っていく必要があると思う。

以前、朝イチでおなじみの柳沢さんだったっけか…違う人かも、が、あいつのことだと指さした向こう側に自分がいる、というようなことをおっしゃってたことを思い出す。
他人事だと目をそらしてきたことが、やがて自分の問題になるかもしれない。生きていると何が起きるかわからないからね。

そして、水俣病は日本でもう終わりですが、世界にはあちらこちらに同じような経済発展に伴った犠牲が…あると思う。
豊かになっていけばなるほど、失うものも多くて。「アップルミント」で語ったことを思い出した。

つづく