『当たり前』の意味
9月23日
こんばんは。
今朝は起きて、余っていたおはぎとヨーグルトを食す。
大きさバラバラのおはぎさんたち、次作るときはもう少し考えて作ろう(笑)
さて、特になにも起きていない平和な水曜日、さっき歩いていてふと思ったこと。
『当たり前』ってなんなんだろうなあ。
人からいわれた『当たり前』には、いろんな背景と意味があった。
まずは、お父さん。
奨学金をもらって、社会人になるタイミングですでに借金を抱える人がたくさんいる中、私は奨学金をもらわずに通えたこと。
「当たり前のことじゃないんだよ。」
児童虐待、育児放棄、いろんな問題がある中で、大切に育ててもらえたことは、当たり前ではない。そうだ。
もし、責任を持たないまま子供を産んで、働きもしない親だったら。
子供は、親を選べない。
だからこそ、本当に感謝でしかないな~。
次、たに口のママさん。
仕事での悩みやら愚痴やらを聞いてもらっているとき、どうしても私は自分ばかりがしているのにという気持ちがあり、
そう口にはしなくてもママさんにその気持ちが筒抜けのようで、
「Hanahちゃんのやっていることは当たり前のことなんだよ。他の人はいいから、まずは自分ができることをしていけばいいんだよ。」といわれたこと。
なにも、特別なことではないんだ。
当たり前にこなすこと、当たり前……。
最後、Oさん。
よく『当たり前』の意味でぶつかり合う私たち。
今まで、家事なんてほぼしてこなかったOさんが、家事を当たり前にこなしてくれている。
でも、「こうやってしていることを、当たり前やと思わないでね。」と言われる。
それなのに、お互いが存在していることについては、「当たり前の存在、ありがとうとかも多すぎるから、そんなのをイチイチ伝えなくてもわかるような関係がいい。」と言う。
当たり前には、いろんな意味がある。
そうしてたどり着くのが、当たり前の反対の「有り難い」だったりする。
父の言葉の意味の『当たり前』の反対は、本当に有り難いことだ。
ママさんの言葉の『当たり前』は、日々のこと。
大きなことではなくて、小さなことをこなすこと。反対を有るのが難しいとするとなんとなく違う。
Oさんの『当たり前』は、一個目の反対は有り難いことだと思う。
なにもしない人もきっといるさ、でも、動いてくれることは決して『当たり前』ではない。
二個目は、難しいけど有ることが難しいを超越して、当然に認め合う関係性であることとして、二人がここにいることは“当たり前”と表現しても嘘ではないだろう。
なんだか、わけがわからなくなってくる。
『当たり前』には、意味がいくつかあるのだ。
できて『当たり前』のことは、自分自身の力でどうにでもできる。
『当たり前』ではないことは、自分以外の人の力である。
自分がどうあがいても人の手を動かすことは無理だ、自分以外の人の心が関係するから。
存在を認めあい、お互いを『当たり前』の存在と言えることは、それなりの信頼関係が必要だ。
もちろん、「お前はいて当然だ!」という乱暴なものではない。
ただ、それを『当たり前』というのは私には抵抗があり、
「なん十年連れ添った夫婦とかならわかるけど、まだ私とOさんの経た時間で当たり前の存在と表現されるのはちょっとね!」と反論しているんだけどね。
もちろん、そんな関係になれることは素敵なことだと思います。
それにしても言葉は、奥が深い。
当たり前に関しても、奇跡やらなんやら言い出したら終わりのない議論になります。
災害が多いこの時代、明日、自分がどうなるかわからない。
自分がいることは、当たり前なことじゃないんだよって。
でも、そう言い出したらキリがないんよね。
そや。昨日、夕日がとおってもキレイでテンションが上がったのさ。
今日は、三ヶ月の旅でお世話になったダウンを洗った。
本当は帰って速攻でクリーニングや!と思っていたんだけど、ズルズルここまで来てしまった。
相当、汚れているはず。
これが、
こうなった!!!
違いわかる??わたしわからん(笑)
でも、とにかく洗えてよかった。
では、またねー(*´ー`*)