生活記録ノート

毎日のこと、旅行記、趣味などいろいろ綴っていきます。現在0歳児子育て中。

昔の旅~鹿児島・熊本~2016 1/30~2/3 ⑤

1月31日 ②

ここ、特攻平和会館では、顔写真の下に、名前と、亡くなった日、年齢、出身地、所属部隊のようなものが書かれている。
当然ながら、みなが私と同じくらいの年齢のまだ若き青年たちだった。
中には、何か見たことのあるような顔だったり、とっても色白できれいな顔だったり、お笑いにいそうな明るい顔だったり。
その下にはディスプレイがあり、彼らが書いた遺書が残っている。
しかし、そのどれもが大変読みづらいものであった。

なぜなら、言葉が美しすぎるから。
現代の私たちが使わないような言葉、言葉、言葉…。
同じ年なのに、こんなにも違うのか、と思った。
そこには、やはり迫っている死への恐怖もあるが、一番目立ったのは家族への愛だった。
自分が死んだあとも、泣かないでくれ、という内容であったり、必ずいい国になる、という言葉だったり。
達観したような感じ。多かったのは、笑って征きます、という言葉だった。

私が心に残っているのは、藤井一中尉という方のエピソード。
彼は、優秀であったため中隊長として、特攻隊へ志願した若者たちの指導を行っている人だった。
けれども、そんな彼らを見送るとき、なぜ自分が安全なところにいて、
若い彼らが自殺行為のようなことをするのか、ただ見送るだけである立場に、耐え切れなくなった人でもあった。

それで、中隊長であるのに特攻隊へ志願するのだ。2度目までは、その志願を受け入れてもらえなかった。
けれども、なんと、藤井中隊長の妻と子供2人が、「一足先に行っています」と、自殺をするのだ。
これは、夫の特攻へ志願するという強い意志を尊重した妻の決断であった。
そのような出来事や、血書などの作成により、藤井中隊長は3度目の志願で通り、出撃し、亡くなる。
 
もう一つは、上原良司さんのエピソード。
この方は22歳で亡くなった方だけれども、幼馴染のきょう子さんという女性を、半年前に肺結核で亡くしている。
彼が出撃前に残したクロォチェの本には、そんなきょう子さんに向けたメッセージが、本の中の文字に丸をつけた形で見つかったのだ。
「きょうこちゃん、さやうなら。僕は きみが すきだつた」
きょう子さんも、上原さんも、幸せになるべきであった若者であるのに…。胸がとても痛くなった。

特攻で亡くなったのは、日本人の若者だけではなかった。朝鮮や台湾の若者も亡くなったのだ。
きっと、言葉も不自由しただろうし、家族とも連絡がとれず、孤独に死んでいったのだと思う。とても不憫でならない。

というのも、彼らの中には写真さえも残っていない人が多かったから。
顔写真のところに、「遺族を探しています」というようなメッセージが出てくる。
顔さえもわからず、生年月日も不明、遺族も見つかっていない。
きっと、どんな時代であったにせよ、愛されて生まれてきたはずの命が、
戦争というわけのわからない争いに巻き込まれ、
まったく知らない土地で死んでいってしまったという現実を、受け止めるのには時間がかかる。

また、特攻隊員の中には、私の2つの故郷である埼玉県川口市と、岩手県陸前高田市の青年が一人ずついたことに驚いた。
と同時に、とても悲しかった。

彼らの遺書を読み、あまりの心の強さに圧倒される。
自分がいかに生ぬるい環境にいるのかわかるし、だからといって二度と起こってはいけないことだから…
この今の世界でさえも、彼らが作り上げてくれたものだと信じ、大切に生きなければならない。

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鹿児島中央駅の真ん前。若き薩摩の銅像